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「淡水真珠、養殖実験打ちきりへ」へのニュースで思い起こす「琵琶湖淡水真珠養殖の歴史」

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 前回も少し触れたけど、「滋賀県で淡水真珠の復活のために2012年から養殖実験を行っていたが、産業として成り立たないとして、2019年度で打ち切ることになった」というニュースを改めて紹介。

収穫された淡水真珠(画像 http://kyoto-np.co.jp/top/article/20171105000016/1)

リンク →淡水真珠、養殖実験打ちきりへ 滋賀、復活目指すも

 

淡水真珠、養殖実験打ちきりへ 滋賀、復活目指すも

 淡水真珠の復活に取り組んできた滋賀県草津市と地元志那町の住民たちが、養殖実験を2019年度で打ち切る。2千粒以上の真珠を採取するなど一定の成果を上げたものの、採算がとれる見込みがないのが大きな理由という。同町は日本の淡水真珠養殖の発祥地とされ、「技術や文化を伝えたい」と継承の道を探っている。

 同町の平湖と柳平湖では戦後に真珠養殖が発展し、1970年代に最盛期を迎えた。数十軒が養殖を手がけていたが、水質の悪化によるイケチョウガイの成育不良や安価な海外産の流通に押されて衰退。現在は1軒のみが操業している。

 (略)かつては貝1個から30~40粒が取れたのに対し、現在は貝の品種が変わった影響もあり8粒程度にとどまる。母貝は価格が上がり、以前より入手が困難に。約15年間、両親と養殖業を営んだ駒井会長は「貝の購入費だけを考えても、とても商売はできない。採算をとるには稚貝づくりから販路開拓まで全てを見直す必要がある」と指摘する。(略)

http://kyoto-np.co.jp/top/article/20171105000016

 

琵琶湖の淡水真珠の歴史を振り返ってみる。

琵琶湖の淡水真珠養殖の歴史 1

 1910~1920年 当時の滋賀県知事らが研究を推進。御木本に依頼するも失敗。

 1923年 藤田昌世(真円真珠発明の西川藤吉の協力者)が大津市にある京都大学臨湖実験所でカラスガイによる真珠養殖の研究を開始。1925年に草津志那町の平湖内湖に養殖場を移す。イケチョウガイによる養殖が可能と判明。

 1935年 イケチョウガイを母貝とする真珠養殖が始動。淡水真珠養殖株式会社設立。事業は順調に成長し、製品が海外に輸出されるようになる。

 1942年 第二次世界大戦勃発により淡水真珠養殖株式会社解散。

 

 1925年に草津志那町の平湖内湖に養殖場を移したとある。冒頭のニュースで「同町は日本の淡水真珠養殖の発祥地」とあるのはこれが理由なのだろう。

琵琶湖の淡水真珠養殖の歴史 2

 1946年 藤田昌世、宇田清一郎とともに新興真珠株式会社を設立。

 アコヤガイ真珠との競合を避けるため、それまでの有核真珠(貝殻を削ったものを核にして真珠をつくる方法)から無核真珠(外套膜の切片だけを用いる方法)の養殖に舵を切る。

 1949年 滋賀県淡水真珠養殖協同組合設立。

 1959年 琵琶湖産真珠の名称を”ビワ湖真珠 Biwako Real Pearl”に統一。浜揚げ量260貫(975キログラム)、施術貝数90万7千個、手術者数222名。

 

  アコヤガイ真珠との競合を避けるために無核真珠の養殖に舵を切ったというのが興味深い。現在の淡水真珠では再び有核真珠の手法が導入されている。アコヤガイ真珠と競合する品質の淡水真珠も誕生している。

そして、

 1965年 農薬による貝の斃死・漁場環境の悪化・乱獲による母貝(天然のイケチョウガイ)不足が深刻な問題になる。

 直面する母貝不足。真珠産業が発展にすると必ず起きる問題だ。思い起こせば、御木本幸吉が真珠養殖に乗り出すきっかけがアコヤガイの不足なのだった。天然真珠をとるためにアコヤガイはどんどん減っていった。

 農薬による貝の斃死・漁場環境の悪化だが、量産を続けて漁場が疲弊していったのだろう。

 現在の(海外の)真珠業者が取り組んでいるサスティナブル(持続可能)な真珠養殖という課題はこの歴史を踏まえているのだと思う。

 当時の琵琶湖淡水真珠業界は、1管理技術の改良、2一つの貝でつくる真珠個数を増やす、3母貝の反復使用(一回真珠を取り出した母貝を再度使う方法)等で生産性をあげることで解決しようとし、一応成功する。

 また、イケチョウガイの人工養殖が成功したために母貝不足は解消。人工養殖の母貝の使用は全体の96%を占めるまでになる。

琵琶湖の淡水真珠養殖の歴史 3 

 1966年 中国産真珠はじめて輸入。160匁(600グラム)

 1968年 人工母貝の供給開始

 1970年代 生産量のピーク。浜揚げ量1,680~1,840貫(6,300~6,900キログラム)の間。真珠生産額は琵琶湖漁業全体額の30%を占める(30~40億円)

 1978年 中国産真珠輸入量が国内生産を上回る。

 1983年 中国産真珠の流通が9,000貫(33,750キログラム)となり国内産淡水真珠の5倍となる。

 1987年 真珠母貝の取扱量が急速に減少。

 1989年  真珠養殖の生産額が1億円を割り込む。

 1992年 琵琶湖内でのイケチョウガイの漁獲量が統計上ゼロとなる。

 

 琵琶湖淡水真珠はアコヤガイ真珠との差別化のために無核真珠養殖に転換したわけだけど、実は無核真珠の施術はアコヤガイ真珠ほど難しくない。斃死率も低い。一つの貝から数十個の真珠ができる、つまり「事業経営上、採算性がとれる。(真珠の養殖より)」ということだ。その経営上のメリットは中国で生産しようが同じだ。結局、豊富な貝と広い漁場があった中国にあっというまに追い抜かれてしまった。

 話は戻して、

「淡水真珠、養殖実験打ちきりへ 滋賀、復活目指すも」というニュースの中の一節に

”同町は日本の淡水真珠養殖の発祥地とされ、「技術や文化を伝えたい」と継承の道を探っている。”

とあるのだが、日本の淡水真珠養殖の技術と文化は既に世界に伝わっていると思うのだが。

というのは。

 12月4日付WBBJTV、”北米で淡水真珠ミュージアムが新たにオープン”というニュースの中の一節。

 New freshwater pearl museum opens doors to its first tour group

“It was fascinating. I loved the cultural awareness; we brought this culture over from Japan. I love how they just opened up a mollusk and there was a little pearl that popped out, and it was just really such a neat process,” said tour attendee Lauren Johnson.

「魅力的でした。私はその文化的気付きを愛していました。私たちはこの文化を日本から持ち込みました。彼らがまさに真珠貝を開けて小さな真珠が出てくるところが私は大好きでした。本当にそれは素敵なプロセスでした」(Google翻訳利用)

もう、みんな知ってるぞ。

(参考資料)

*1987年日本真珠振興会発行の「真珠の養殖」

田村真珠 琵琶湖真珠養殖の歴史年表

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