天然真珠は、貝が偶然飲み込んだ小さなかけらが、奇跡的に貝の内側にとどまり、
貝の持つ真珠層で何層にも包み込まれて出来る稀少な宝石。
その気品ある美しさは古来から人々を魅了して来ましたが、
長い間人の手では創り出せないとされてきました。
古来から人々を魅了してきた真珠(パール)の名前の由来、真珠養殖の始まりなどの真珠の歴史を解説しています。
天然真珠は、貝が偶然飲み込んだ小さなかけらが、奇跡的に貝の内側にとどまり、
貝の持つ真珠層で何層にも包み込まれて出来る稀少な宝石。
その気品ある美しさは古来から人々を魅了して来ましたが、
長い間人の手では創り出せないとされてきました。
美しいものに心奪われるのは古代人も現代人も同じことです。
古来から丸くて輝きを放つものは、神聖化され宝として珍重されてきました。
真珠のように加工を必要とせず、自然にあるがままの姿で際だった輝きを放つものは他にありませんでした。
人類史の中でも早くか宝珠とされてきた真珠は、極めて稀に貝の中から輝き現れるという
神がかり的な要素もあり、人々に一層神秘的な魅力と畏怖の念を抱かせたに違いありません。
真珠という言葉は、歴史をさかのぼる事、紀元前千年ごろの
中国の文献に見られ、日本では日本書紀にその記述があります。
珠というのは河海で産する円形の玉という意味があるので玉石なども含みますが、
中でも特に美しく光り輝いたものが真珠と呼ばれたのでしょう。
英語の『PEARL』は真珠が中世ラテン語の『PIRULA(西洋梨)』の形に似ていることに由来するといわれています。
古代ギリシアでは『MARAGARITES(光の子)』と表されたこともあり、真珠がいかに愛好されたかがうかがえます。
現在ではダイヤモンドが宝石の王様ですが、15世紀に研磨技術が確立されるまでは真珠が王様でした。
今では真珠は宝石の女王として世界中で愛されています。
真珠といえば『海女』を連想しますが、昔は海女によって真珠貝が採取され天然真珠を取り出していました。
白い海女衣装を身につけて海に潜る彼女たちの存在なくして真珠文化の繁栄はありえませんでした。
現在では養殖真珠の母貝そのものまで養殖していますので
海女が真珠貝を採ることはなく観光のショー以外に活躍の場がなくなりました。
インド、タヒチ、中国など真珠の産地には必ず存在する職業です。
紀元前2世紀初期の中国には真珠漁場が開発され、潜水技術がかなり発達していたといわれます。
日本のように女性が潜る地域や夫婦ペアで漁を行う地域もあります。
日本書紀の中には、海人の男狭磯が海に潜り命を犠牲にして天皇のために海底から
真珠を持った大アワビを抱いてくるという説話が登場し、謡曲や歌舞伎にも転化されました。
また、天武天皇が皇子のころの名は大海人皇子で、伊勢地方、伊勢神宮と深い関わりをもっています。
海人族集団を率いては航海権や真珠採取を掌握し経済力を背景に大きな権力を持ったのかもしれません。
11世紀の宋の時代には半円真珠の養殖が行われていました。
16世紀になると『胡人真珠』『仏像真珠』と呼ばれる殻付き半円真珠がつくられていたのです。
貝殻の内側に張り付ける核の形のまま真珠が形成されるので
仏像の形をした核を入れると仏像真珠をつくることができます。
18世紀には金属柄の付いた丸い真珠の養殖も試みられています。
日本では古代より崇拝物として、また権威の象徴として珍重されていました。
時代とともに中国や朝鮮との貿易が盛んになるにつれて重要な交易品として扱われ、
アコヤ貝の棲息地では採取が規制されるなど専売品的な扱いとなります。
明治維新後、取り締まりがなくなり貴重な輸出品である真珠が乱獲され貝も絶滅寸前になっていました。
これを憂える人々の手によって真珠養殖が本格的にスタートします。
古来より『美の象徴』として珍重されてきた真珠。
この真珠を『人間の手で作りたい』という夢は、19世紀に入って科学が発達するとともに
ヨーロッパなどで真珠の形成メカニズムの研究へと具現化し、その原理が解明されました。
実際に貝の体内で真珠を形成させることに成功したのは、西川藤吉氏らの日本の先駆者たちでした。
20世紀初頭、西川氏は貝の外套膜上皮細胞(真珠質を分泌する、貝殻に接している部分)が、
何らかのきっかけで貝の体組織中に入り込むと真珠袋を形成し、真珠が出来るという仕組みに着目し、
外套膜上皮細胞を人為的に貝の体内に移植すれば真珠が出来るのではないかと発想したのです。
『西川式』または『ピース式』と呼ばれる『球形真珠形成法』であり、
明治40年(1907年)に特許申請、現在の養殖真珠生産の根幹となる技術として
確立され、今日における真珠養殖の発展へとつながりました。