海女に白い水着を着せたのはミキモトなのか?最後のジャパニーズマーメイド真珠採りの話。

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伊勢志摩サミットの海女  

バックに白い衣装の女性たちが写っている。2か月前の伊勢志摩サミットの際にミキモト真珠島で撮影されたものだ。

ミキモト真珠島での海女に囲まれるファーストレディ達。 ミキモト真珠島での海女に囲まれるファーストレディ達。安部首相夫人の昭恵さんは真珠のネックレスをしている。

主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)参加国の首脳夫人らを歓迎する配偶者プログラムで、安倍晋三首相の昭恵夫人ら4人が26日、三重県鳥羽市のミキモト真珠島で地元住民と交流した。海女との対話もあり、夫人らは「海で働く皆さんの勇気を心に留めて帰国したい」と話した。http://www.sankei.com/politics/news/160526/plt1605260045-n1.html

伊勢志摩サミット参加の首脳夫人たちが海女に囲まれているこの画像は、日本のニュース記事ではほぼみかけないのだが、海外のニュース記事には多く使われている(配信されている)。最近の海女はウエットスーツを着て潜る。この白い磯着はあきらかに演出だ。この演出は外国人にはウケたんではないだろうか。外国人には日本の海女は隠れた人気があるに違いない。

海女=白い磯着=真珠採り

 ”海女=白い磯着=真珠採り”という連想が働く日本人は多いと思う。実は真珠貝を採る海女に白い磯着を着せることを思いついたのは御木本幸吉らしい。このことについて以前、”御木本真珠島と海女”(2009年10月)というブログ記事に少し書いた。(海女が真珠貝をとるためのショーが有名になりすぎてしまい、真珠養殖業をしていると同じように潜ってると思われる、という小ネタ記事である。)このショーは1951年のミキモト真珠島開業当初から行われている。

1951年開業の同施設の目玉アトラクションとしてスタートした「海女の作業」は、御木本幸吉翁が真珠養殖見学に訪れる外国の来賓客を楽しませるために行った「サプライズショー」を同施設の開業に合わせて作ったもの。鳥羽湾に面して「海女スタンド」なる観覧席を設置し、観客の目の前で海女が海底のアコヤガイや海藻などを取る作業を披露する。http://iseshima.keizai.biz/headline/443/

ミキモト真珠島にある真珠博物館の館長である松月清郎氏が「真珠の博物誌」という本の中でこう書いている。

 上半身をおおう白い衣装は養殖真珠の評判を聞いてはるばると見学に訪れる外国人や都の貴顕に失礼のないよう、養殖場で働く海女が着用したことから始まったといわれている。
 やがてこの白い衣装は志摩一円に広がり定着する。いったん隠した上半身を再びさらすことはたいへんな羞恥心を伴うものだ。
つまり、白い磯着の海女が真珠貝を持つ図は真珠養殖登場以後、それも昭和以後にあらわれた比較的新しい風俗であって、特に外国からの観光客に対しては、異国の情緒として鮮やかな印象を与えたとことと思われる。女性が海に潜るということじたいが外国では稀だし、しかも手にしているのが真珠貝だ。
 真珠養殖業を始めた御木本幸吉は演出の天才だったから、おそらくそういう効果を勘定にいれていたに違いない。
「真珠の博物誌 松月清郎著」より 「amazon 真珠の博物誌

白い磯着が広まったのはいつか?

白い磯着が広まったのはいつか?私の疑問はこの一点である。
外国人観光客の多い鳥羽ではいち早く磯着が普及しただろう。
昭和9年にこんな観光用ポストカードが売られていたらしい。(三重大学図書館 http://culgeo.i-portal.mie-u.ac.jp/2009/postcard/set_004.htmlより。)

鳥羽の菅島の海女  絵葉書 鳥羽勝景 鳥羽の菅島の海女  絵葉書 鳥羽勝景 答志島の海女  答志島の海女 絵葉書 鳥羽勝景

昭和初期に白い磯着は普及していたのだろうか?していなかったのだろうか?
絵葉書は観光用のはずなので実際はどうだったかは不明だ。
ただ、8枚組の観光絵葉書のうち3枚が海女の写真である事から、昭和初期から海女は鳥羽観光の人気コンテンツであったということがわかる。

鳥羽にある海の博物館のサイトhttp://www.umihaku.com/には昭和50年代(1975年~)の海女の写真が載っている。

海の博物館のサイトより。昭和50年代の海女。 海の博物館のサイトより。昭和50年代の海女。

1972年に海外の広告に白い水着をきたミキモト真珠島の海女の姿がつかわれている。what the white mizugi was forである。白い水着は何のためである。1970年代には白い磯着は海女のユニフォームとして定着していたのだろう。

"Diving 40ft. without oxygen was scary enough, until I found out what the white mizugi was for."

カナディアンクラブウイスキーの広告。ミキモト真珠島の海女が潜っている。 カナディアンクラブウイスキーの広告に使われるミキモト真珠島の海女。

http://www.atticpaper.com/proddetail.php?prod=1972-canadian-club-ad-white-mizugi

外国で人気の日本最後の人魚、The Last Japanese Mermaidとは。

ネット上でAMA、PEARL DIVERのワードで検索すると

http://www.messynessychic.com/2013/11/01/the-last-japanese-mermaids/

↑こんなサイトが次々とヒットする。

この記事のタイトルはThe Last Japanese Mermaid。最後のジャパニーズマーメイドである。

海女の写真。 写真集 「海女の島―舳倉島」のものだと思われる。


 ジャパニーズマーメイドが世界で知られるようになったのはイタリア人Fosco Marainiが1960年に出したIsland of the fisherwomanという写真集からである。イタリア版・ドイツ版・UK版・US版・スウェーデン版・日本版と各国で出版されている。日本の写真家岩瀬禎之も有名である。
これらの写真集によって海女=マーメイドは外国で大人気となったのだ。(ネット上で閲覧できる海女の画像はこれらの写真集からの転載ばかりである。)
 http://www.achtung.photography/fosco-maraini-lisola-delle-pescatrici-1960/
これらの写真集を見てもわかる通りミキモト真珠島がオープンした1951年当時は鳥羽・伊勢志摩以外の日本の海女はまだまだ上半身裸だったのである。

ミキモト真珠島の海女PEARL DIVERの白い磯着姿をみてがっかりしたジャパニーズマーメイドファンの外国人はいたと思うよ。

*日本の海女を撮った写真集

「Island of the fisherwoman Fosco Maraini」。日本版”海女の島―舳倉島 (AMA Island – Hegura Island) ”
「amazon 海女の島 舳倉島 〔新装版〕 (転換期を読む) 」

千葉県御宿の海女を撮った「海女の群像―千葉・岩和田1931‐1964 岩瀬禎之写真集」。
「amazon 海女の群像―千葉・御宿(1931‐1964) 岩瀬禎之写真集

*伊勢志摩と海女といえば萌えキャラ碧志摩メグについても語らなければと思いましたが長くなるので省略します。

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