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真珠養殖を発明したのは誰か?その2

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真珠養殖を発明したのは誰か?その2 見瀬辰平と西川籐吉について。おのおのについて書こうと思ったんだけど、一緒にしてしまいます。

いきなり、ウィキペディアの見瀬辰平の項から引用します。

見瀬 辰平(みせ たつへい、1880年3月16日 - 1924年8月3日)は真珠の養殖技術者、真円真珠発明者。

三重県度会郡神原村(現南伊勢町)で森本岡平の4男として生まれる。

11歳の時、志摩郡的矢村渡鹿野島(現志摩市)の見瀬弥助の養子となった。

真円真珠の研究結果がはじめて公表されたのは見瀬による1907年(明治40年)の特許12598号によってであった。

1902年(明治35年)5月、神明村(現・志摩市)から真珠貝15,000個を的矢湾に移植し円形真珠形成の研究を開始。

1904年(明治37年)、養殖に成功した円形真珠を携えて伊谷以知二郎、岸上謙吉に示している    

三重県志摩市賢島にある深遠真珠の顕彰碑の写真です。西川籐吉・御木本幸吉・見瀬辰平の名前が並んでいます。
見瀬辰平らの顕彰碑

photo:暇人写真日記「懐かしの真珠供養塔」success403.blogspot.com/2009/10/1013-40.html

暇人写真日記を書いている人の祖父は見瀬辰平と親交があったようですね。

見瀬辰平との協同研究者に我が祖父 作太郎がおる
あらためて 祖父の偉大さに敬服
「懐かしの真珠供養塔」

とあります。

海外では、「Mise-Nishikawa Method」 として知られているようです。

miseはもちろん見瀬辰平で、nishikawaはというのは西川籐吉氏のことです。

二人が同時期に真円真珠の原理を発明したということになります。

この原理というのは、「外套膜を真珠貝の体内に核となるものを一緒に入れると真珠になる」というものです。

見瀬辰平はあまりにマイナーな人物ですね。

御木本幸吉のように真珠事業で成功はしなかったこと。
そして、最大の原因は44才という若さで亡くなったことだと思われます。

西川籐吉も30代の若さで病死していますが、東京帝大の研究所仲間や、御木本幸吉の次女の婿であったことから、御木本真珠へも研究成果が引き継がれていきます。

見瀬辰平はよくわかりません。事業がことごとく失敗したという記録があるだけです。

再びウィキペディアの見瀬辰平の項にもどります・

真珠に関する特許

1907年(明治40年)、真円真珠の特許を出願(特許38318号)するが西川藤吉の特許に抵触するとして紛争となる。そのため、まず器具の特許をとる事にした。これが前述の特許12598号である。この紛争は、先に発明した西川藤吉か先に出願した見瀬辰平か、という争いで、先発明主義か先願主義かいう意味では、我が国で初の争いであった。

1908年(明治41年)9月2日、調停の末、西川藤吉名で特許を取得した後、特許を共有する契約が成立する。見瀬には不利な決着であった。このことについて見瀬は自身の手記で「西川藤吉は病気により死期が迫っており早期に解決しなければいけない。」「真珠養殖の発展のために紛争を長引かせてはいけない」と書いていて、見瀬の人間性をかいま見ることができる。「人物叢書 御木本幸吉」を書いた大林日出雄は「研究者・発明家としても、事業家としても、はがゆいほどの態度」と書いている。

この特許は海外では「Mise-Nishikawa Method」として知られている。

1919年(大正8年)にフランスで「第501447号真珠形成方法」、1920年(大正9年)にアメリカで「第39506号真珠形成方法」の特許を取得している。これらは真珠に関して日本人で初めて外国で取得した特許となる

西川籐吉は研究一筋の人物で、博士号取得も特許取得にも全く興味が無かった人物のようですが、余命少ないと知った東京帝大の研究者仲間がが特許取得を勧めようです。

(真円真珠の発明者は、英語圏ではイギリス人学者ウィリアム・サヴィール-ケントが先だったと、書かれているサイトも多く、要調査項目・・・・・ややこしい。)

このシリーズ。次回は藤田兄弟を書きたいのですが・・・。

どうもこのテーマアクセス数も反応もないので・・・・・。・・・・ばかりのエントリーになってしまいました。

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