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オーストラリアの木曜島とブルームの真珠採りに関わった日本人。

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司馬遼太郎が書いた「木曜島の夜会」が知られていて、そのためオーストラリアの真珠採りは木曜島というイメージがある。
「木曜島の夜会」にはこういう記述がある。

 甥と私は、長いあいだ、うかつなままでいた。紀州人が明治から豪州の海へ行きつづけていたのは、天然真珠を採りに行っていたんだろうと思っていたが、そうではなく、貝殻そのものを採るのが目的だということをあとで知った。

 いまだ、おなじように、オーストラリアに”日本人が天然真珠を採りに行っていた”と思っているうかつな人は多いように思う。日本のブルーム関連のニュース記事でも勘違いしているものが多い。(ウィキペディアのブルームの説明も間違っていたので私が書き直しておいた。)

真珠貝の出荷風景 (The National Library of Australia) 真珠貝の出荷風景 (The National Library of Australia)

文化人類学者でファンタジー作家の上橋菜穂子さんのエッセイを読んでたら、ブルームのパールダイバーの話が載ってた。

シオザキ氏の故郷は、西オーストラリア州北部の港町ブルーム。かつて真珠の養殖が盛んだったところです。中国やマレーシアから多くの人々が移り住んだ町ですが、明治時代以降、日本からも多くの人々がこの町に住み着き、優れた潜水技術を持つ勇敢なパールダイバーとして名を馳せたことは有名で、いまも毎年「シンジュマツリ・フェスティバル」が開かれています。
 シオザキ氏の父親もパールダイバーで、第二次大戦前に和歌山県の太地町からブルームへ渡ってきた人でした。日本から遠く離れた、インド洋に面したその町で、彼はアボリジニの女性と所帯を持ったのです。
 「明日は、いずこの空の下」 上橋菜穂子

ブルームに日本出身の真珠採り(パールダイバー)がたくさんいたことは、あまり知られていないのかもしれない。オーストラリア政府観光局公式サイトにはこういうふうに書いてある。

キンバリー地方の入口にあたるブルームは、オーストラリアの真珠採取の中心地です。
西洋人が初めてやってくる何百年も前から、一帯に住むアボリジニたちは真珠貝の貝殻を集めて、交易に利用していました。
新しくやってきた入植者たちはすぐに真珠貝がもたらす富に目をつけ、1910年頃になると真珠産業の活況にひかれて真珠採りの潜水夫たちがアジア各地から続々と集まってきました。
オーストラリア政府観光局公式サイト


 メインは貝殻の採取であり真珠は貝採取の際の副産物だったのだ。
 真珠養殖をしに行っていたと誤解している人もみかける。19世紀後半に真珠養殖で栄えたと書いてあることもある。けれど、日本で真珠養殖が始まったのは20世紀のはじめだから、これはまったくの間違いで、真珠採り(PEARLING)と真珠養殖がどこかで混同されてしまったのだろう。
 オーストラリアに関していえば、1921~1949年まで真珠養殖禁止法が施行されていて真珠養殖はできなかったらしい。
日本の日宝真珠がオーストラリアに養殖場を開設したのは1954年のことで、ブルームが真珠養殖で復興するのは1950年代以降だ。

真珠貝から貝ボタンが作られる。(The National Library of Australia) 真珠貝から貝ボタンが作られる。(The National Library of Australia)


ブルームといえば村上安吉という日本人がいる。彼はパールダイバーではなかった。
1896年に和歌山県の田並を出てオーストラリアのコサックに到着する。16歳。

ハーディング川 (Harding River) の河口にあるコサックは、1860年代にオーストラリアで初めて真珠貝採取業が始まった場所。真珠貝採取というと、ここから800キロほど北にあるブルーム (Broome) が有名ですが、実は、オーストラリアで最初に真珠貝採取業が始まったのは、ここコサックなんだそう。
コサックの町は、1860年代から約40年に渡り真珠貝採取業とゴールドラッシュにより栄えますが、真珠貝の枯渇により真珠貝採取業はブルームに移り、ゴールドラッシュは終焉し、更には港の機能がコサックから隣のポイントサムソンに移ったことにより、町は衰退の一途を辿ります。そして、1950年頃までには町が放棄され、ゴーストタウンになってしまいます。
sowhat 世界旅日記
オーストラリアのコサック(so what 世界旅日記より) オーストラリアのコサック(so what 世界旅日記より)

コサックでは真珠貝採取ブームが終焉していたのだろう。村上は1900年にブルームに移る。
その後に勤めていた商店の経営を引き継ぎ、写真館とパールダイバー相手の銀行業を手掛けるなど商売を広げる。
1915年地元の不景気で預金引き出しが相次ぎ、1918年に破産。
1921年に真珠養殖の合弁会社を設立。しかしWest Australian Pearlers' Association が州政府に真珠養殖の禁止を訴えるなどの妨害をうけ失敗。(前述の真珠養殖禁止法と被るのだが関連不明)
潜水服の改良を手掛けマウスピース型の潜水具を発明する。1935年にダーウィンに移り写真館を経営。
(Australian Dictionary of Biography )の職業欄にはimporter,internee,Japanese community leader,pearl trader,photographer (general),retailer,wholesalerとなっている。しかしinternee=被抑留者って、、、、。

朝日新聞の記事にはこうある。(この記事よりも Australian Dictionary of Biographyが詳しい)

潜水活動を大幅に自由にしたスキューバが開発される以前、戦前の豪州で独自に改良型の潜水具を発明した移民の日本人がいた。和歌山出身の村上安吉(1880~1944)。潜水具で特許を取り、豪州に初めて真珠の養殖を導入しながら、日米開戦で収容所へ送られて病死した。近年、その再評価が進んでいる。http://www.asahi.com/articles/ASJ7G5VPVJ7GPTIL01Q.html

村上氏の生涯は2014年のシンジュマツリ・フェスティバルで舞台化された。

シンジュマツリ・フェスティバル。今年は9月9日から18日までだ。いつかは行ってみたい。

*「木曜島の夜会」についてとモデルとなった藤井富三郎氏のことについては長くなるので今回は省略する。

参考

Australian Dictionary of Biography
http://adb.anu.edu.au/biography/murakami-yasukichi-11201
ブルームの「シンジュマツリ・フェスティバル」
http://shinjumatsuri.com.au/

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