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島尾ミホの養父は加計呂麻島でマベ真珠の養殖を試みたらしい。

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真珠貝の一種であるマベガイ。奄美はマベガイが生息している北限であるらしい。というわけで、島尾ミホの養父、大平文一郎はマベ真珠の養殖事業を試みた。

”奄美が生息の北限であるマベ貝は、国内で真珠養殖に利用されるアコヤ貝より大きく、もし成功すれば本土では作れない大型の真珠を生産することができた。”(新潮社 狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ)より。

 

奄美観光協会 http://amami-kankou.com/

島尾ミホというのは島尾敏雄の小説「死の棘」のモデルである。島長の娘ということだ。島長とは大平文一郎である。

wikipedia 島尾ミホ」にはこう書かれている。

夫・島尾敏雄の代表作『死の棘』に登場する「妻」のモデル。『海辺の生と死』で田村俊子賞を受賞。他に『祭り裏』、短編「その夜」など故郷に題材を取った作品が多い。

島尾ミホが育った故郷は加計呂麻島で、養父の大平文一郎はこういう経歴の人だ。

ミホの養父・大平文一郎は、明治元(1866)年、奄美群島の加計呂麻島に生まれた。(略)京都に出て同志社大学の前身である同志社英学校に進む。卒業後は奄美大島の名瀬にあった島庁に勤務したが25歳のときに母に乞われて加計呂麻島に戻った。その後は戸長や村長を務めながら、様々な事業を試みた。(略)

しかしいずれも利益を上げるところまではいかず、最後に手掛けたのが真珠の養殖だった。ミホの記憶にあるのは、物心ついたときわずかに施設が残っていたこの事業だけである。

(新潮社 狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ)

大平文一郎は様々な事業を興したが、いずれも利益をあげられなかった人物、なのだ。彼の手掛けた事業とは

  1. ノルウェイ人を雇っての捕鯨
  2. カニの加工会社
  3. シベリア鉄道への枕木の輸出
  4. 楠を植林しての樟脳作り
  5. マベ貝を使った真珠養殖

である。

一見すると目新しい事業に脈絡なく手を出したように思えるが、奄美の歴史を知れば、サトウキビに頼らない、奄美ならではの新しい産業を何とか生み出そうとする試行錯誤出であったことがわかる。

(新潮社 狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ)

奄美でマベ真珠の養殖という新しい産業を生み出そうとしたのだ。現在、奄美でマベ真珠を生産している奄美サウスシー&マベパール株式会社(前身は田崎真珠マベパール部門)のサイトに奄美真珠養殖の歴史の記述がある。

第二次世界大戦前
 奄美大島でのマベパール養殖の歴史は、遠く明治時代にまで遡ります。
 1910年(明治43年)、奄美大島の油井小島と俵小島において、猪谷荘吉氏と池畑末吉氏が共同事業で養殖を開始したのが、マベパール養殖の最初とされています。しかしながら、事業は思わしくなく、結局1923年(大正12年)に事業を中村十作氏に譲渡しています。
 1925年(大正14年)、事業を譲渡された中村十作氏は、油井小島で半径真珠養殖に成功し、その製品をスペイン等に輸出しています。この養殖場では毎年3千個に挿核するなど盛況でしたが、戦時色が濃くなった1943年(昭和18年)には中断されることとなりました。

(略)

「奄美サウスシー&マベパール 奄美真珠養殖の歴史

上記の奄美真珠養殖の歴史に、大平文一郎はでてこないが、鹿児島水産技術センターの資料鹿児島水産技術開発センタ- マベ貝(PDF)にはちゃんと名前がでてくる

1926(昭元)年 奄美大島・鎮西村(現在の瀬戸内町)の大平文一郎は,三重県の浜田八十八と共同して富士真珠株式会社を設立し,半径真珠の養殖事業を行って外国まで輸出したが,1931(昭6)年には中止している。

http://kagoshima.suigi.jp/ayumi/

 「狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ」には大平文一郎がすべての事業に失敗したとあるのだが、大平文一郎にサトウキビにたよらない産業振興の意図があったのであれば、真珠養殖はまったくの失敗というものでもなかったのだと思う。マベ真珠養殖業は産業として生き延びている。

養殖事業は、カフスボタンやブローチなどに使われる半円の真珠は成功したが、真円のものを作ることは最後までできなかったという。

「狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ」より

真円真珠の養殖は核(と外套膜の切片)を真珠貝の体内に挿入する。マベガイの体内は筋肉質で固く大きな核の挿入は技術的に難しい。アコヤの真円真珠養殖で成功した御木本真珠も石垣島やパラオでマベの真円真珠にトライしたが失敗したという。

今でも、マベといえば半円真珠のことで、海外では「半円の南洋真珠」という扱いをされる事が多いようだ。

島尾ミホと大平文一郎の話に戻る。

1957年(昭和32年)に島尾ミホは加計呂麻島に帰郷する。人手に渡って荒れ果てた養父の住まいをみた。そして帰路に養殖場の跡地の浜(鎮西村で加計呂麻島ではないようだ)をみたのだろう。

島で一晩を過ごし、港から船に乗ったときのことを、ミホは「死の棘から脱れて」の中で「父が真珠の養殖をしていたクバマの沖を通ったとき、私ははっきりと過去に決別を告げることができました」と書いている。

島尾ミホが過去と決別した頃、奄美のマベ真珠養殖はまさに風前の灯火だった。

1955(昭 30)年 。奄美大島の 2 社が事業開始した当初は,年間数万個の天然母貝が採取され養殖されたが,1955年には母貝採取量は数百個に激減し,そのため実久真珠は事業を中断した。一方,光塚喜市は母貝資源の枯渇で経営が行き詰まって来たため,人工採苗による母貝生産を計画し,白井祥平を招いて増殖研究に当たらせたほか,国費助成を陳情した。(http://kagoshima.suigi.jp/ayumi/)

1962年から64年のマベ半径真珠の生産量統計では「0」「-」「-」になっている。挿核してから浜揚げまでには何年もかかるためにずれが生じているのだろう。とにかく3年間は生産が滞ったらしい。

現在のマベパールの復活は人工採苗の功績によるところが大きい。それまでは母貝は地元の漁師に天然貝を集めてもらっていたのだから事業としての効率は悪い。取りすぎれば枯渇する。母貝が手当できず事業が頓挫することも珍しいことではなかった。また、試行錯誤しながら養殖技術を向上させるためには多くの貝が必要になる。

再び奄美真珠養殖の歴史から引用する。大量の人工採苗貝の採集に成功したのは1970年である。

 1966年(昭和41年)、田崎真珠株式会社を含む真珠養殖業者11社と瀬戸内漁協が協力して、マベ人工採苗貝の安定供給を図るために「マベ真珠養殖振興協会」を設立しました。しかし、折からの真珠不況により真珠養殖業者が奄美から相次ぎ撤退したことにより協会が解散し、1968年(昭和43年)には田崎真珠単独でマベ真珠の人工採苗に取り組むことになりました。
 1970年(昭和45年)、瀬戸内町小手安地区にマベ真珠の人工採苗施設を建設し、大量の人工採苗貝の採集に成功。1974年(昭和49年)にはマベ人工採苗貝を使った初の浜揚げに成功し、マベ真珠の量産化を開始しました。
 (略)

「奄美サウスシー&マベパール 奄美真珠養殖の歴史

 

真珠の養殖(日本真珠振興会刊)という本の中で村松守光氏が「昭和59年(1984)マベ真珠養殖史初の快挙として”マベ真円真珠が”指輪やブローチとなってデビューし”たと書いている。マベ真円真珠が製品化されたのは大平文一郎が真珠養殖を中止した頃から数えても半世紀が経っていた。

 

*島尾ミホが書いた『海辺の生と死』(中公文庫)に 「真珠-父のために」という章があるのだが、手元に本がないのでこの項についての感想は割愛する。

*奄美サウスシー&マベパールの安樂氏が、良い母貝をつくること、つまり人工採苗を重視していることがわかって興味深かったので引用する。

真珠、というと宝飾品というイメージが浮かぶ。けれど、奄美サウスシー&マベパール株式会社代表取締役の安樂さんは、「真珠は生き物だ」と語る。 「要はサラブレッドを作るのと同じなんです。いい真珠を作るためには、まずは貝が重要。いい真珠を作る貝を掛け合わせて、“貝のサラブレッド”を生み出す。そこから、真珠づくりが始まります」 大きな真珠を作る貝、形のきれいな真珠を作る貝、色のきれいな真珠を作る貝。さまざまな個性を持つ貝を掛け合わせ、これぞ、という真珠を作る貝を生み出す。

引用 海と貝と人とのコラボレーション。奄美の人々が100年以上にわたり守り続けた輝く真珠「マベパール」

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